子どもたちが眠ったのは、二十三時を少し過ぎてからだった。
下の子は、絵本を三冊読んでも眠らなかった。四冊目の途中で、ようやくまぶたが重くなった。上の子は、寝たふりをしながら、こっそり懐中電灯で漫画を読んでいた。気づかないふりをして、部屋の電気を消した。
廊下に出て、扉を静かに閉める。
家の中が、急に広くなる。
さっきまで、この家は音でいっぱいだった。お風呂のお湯の音。歯磨きを嫌がる声。明日の体操服が見つからない、と叫ぶ声。洗濯機の終わりを知らせる電子音。それらが全部、扉の向こうに閉じ込められて、廊下には、私の足音しか残っていない。
台所に行く。
流しには、まだ夕飯の食器が残っている。明日の朝でいい、と決める。決めるまでに、三秒かかった。以前なら、三十秒は迷っていた。
冷蔵庫の奥から、一本取り出す。野菜室の、さらに奥。子どもたちの手が届かないところ。
食卓の椅子に座る。
テーブルの上には、上の子が描いた絵が置きっぱなしになっている。家族四人と、犬が一匹。うちに犬はいない。欲しいのだと思う。犬の隣に描かれた私は、両手を大きく広げて笑っている。
こんなふうに笑っているだろうか、私は。
栓を開ける。小さな音。子どもたちが起きないかと、一瞬だけ耳を澄ます。大丈夫だった。
グラスに注ぐ。霞んだ、やわらかい黄色。
ひと口。
果物の香りが、ゆっくりと口の中に広がる。少し苦い。苦さが、喉の奥で静かに消えていく。
ふう、と息を吐く。
今日、誰かの「お母さん」ではない時間は、これが初めてだった。
朝起きてから、ずっと誰かの何かだった。子どもたちの母親。会社の課長。夫の妻。PTAの書記。近所の人にとっては、何号室の人。それぞれの役は、それぞれに大事で、嫌々やっているわけではない。
ただ、役と役のあいだに、私が入る隙間が無い。
台所の棚に、一冊の本が置いてある。二年前に買って、四十ページで止まっている小説だ。しおりが、四十ページ目に挟まったまま、色あせている。
手に取る。
しおりのところを開く。前に読んだところは、もう覚えていない。少しだけ戻って、三十五ページから読み始める。
主人公が、知らない駅で電車を降りるところだった。
一行目を読む。二行目を読む。三行目で、少し引っかかる。言葉が、頭の中にうまく入ってこない。長いあいだ、こういう文章を読んでいなかったからだ。
もう一度、一行目から読む。
今度は、入ってきた。主人公の見ている景色が、ぼんやりと浮かぶ。知らない駅。古いベンチ。改札の向こうの、夕暮れの坂道。
ページをめくる。
ひと口飲む。
ページをめくる。
時計の針の音が聞こえる。冷蔵庫の低い音が聞こえる。それ以外は、何も聞こえない。主人公は坂道を登っていく。私も、一緒に登っていく。
五十ページまで読んだところで、顔を上げた。
二十三時四十分。たった十ページ。それでも、二年ぶりに、四十ページの向こう側に行けた。
戻ってきた、と思う。
どこから、と訊かれたら答えられない。どこへ、と訊かれたら、たぶん、自分のところへ。母親でも、課長でも、妻でも、書記でもない、ただ本を読むのが好きだった人のところへ。
その人は、どこにも行っていなかった。ずっと、ここで待っていた。
しおりを五十ページに挟み直す。色あせたしおりが、少しだけ前に進んだ。
グラスを洗う。流しの食器は、やっぱり明日の朝にする。
子ども部屋の扉を、そっと開けて覗く。上の子は、懐中電灯を握ったまま眠っていた。電灯を消して、布団をかけ直す。
おやすみ、と小さな声で言う。
明日の朝、私はまた、お母さんに戻る。それでいい。今夜、ちゃんと私に戻れたから。
了