眼鏡を外すと、部屋の輪郭がほどける。
本棚の背表紙の文字が読めなくなる。壁の時計の針が、二本なのか一本なのか分からなくなる。窓の向こうの信号が、赤い丸から、赤いにじみに変わる。
金曜日、二十三時。私はこの瞬間のために一週間を過ごしている、と言ったら言いすぎだろうか。
仕事は校正だ。他人の書いた文章を、一文字ずつ見る。「が」と「を」の取り違え。全角と半角の混在。三ページ前では「おこなう」だったのに、ここでは「行う」になっている。誰も気づかないような小さなずれを見つけて、赤い線を引く。それが私の仕事で、私はそれが得意だ。
得意なことを一日じゅうやっていると、夜になっても目が仕事をやめない。駅の広告の誤字を見つける。コンビニのレシートの字間が気になる。友だちから届いたメッセージの句読点の位置まで、頭の中で直してしまう。直したいわけではないのに、目が勝手にそうする。
だから、眼鏡を外す。
外してしまえば、もう何も読めない。読めないものは、直せない。直さなくていい世界に、ようやく戻ってくる。
冷蔵庫の中も、ぼんやりしている。手探りで瓶をつかむ。ラベルの文字は読めないけれど、形で分かる。今夜の一本。
グラスに注ぐと、中身まで、ぼんやりしていた。
霞がかかったような、やわらかい黄色。底のほうまで光が通らない。明るいのに、向こう側が見えない。眼鏡をかけていても、たぶんこう見えるのだろう。そう思うと、少し可笑しかった。私の目と、このグラスが、今夜は同じものを見ている。
ひと口。
熟れた果物のような香りが、鼻の奥でふわりと広がって、すぐに輪郭を失う。どこからどこまでが香りで、どこからが自分の呼吸なのか、分からなくなる。それでいい、と思う。
子どものころ、私はひどい近視だった。眼鏡を作ったのは十歳のときで、初めてかけた日のことをよく覚えている。眼鏡屋を出た瞬間、街路樹の葉っぱが一枚一枚分かれて見えた。それまで緑のかたまりだったものが、何千枚もの葉っぱの集まりだったのだと知った。
感動した、と大人たちには言った。半分は本当で、半分は嘘だった。
正直に言えば、少し疲れた。世界はこんなに細かくて、こんなに多くて、全部がはっきりしているのか、と。緑のかたまりのほうが、私は好きだったのかもしれない。
ソファに横になる。天井の照明が、白い大きな円になっている。目を細めると、円がにじんで、星のような形になる。
スマートフォンが光った。画面の文字は読めない。読めないから、今は見ない。誰かが何かを言っている。それは明日の、眼鏡をかけた私が読めばいい。
二杯目を注ぐ。手元が少し狂って、泡がグラスの縁からこぼれた。指でぬぐう。気にしない。今夜の私は、こぼれたものを数えない。
一週間ぶんの赤い線が、頭の中で少しずつ薄くなっていく。
はっきりしていることは大事だ。月曜日になれば、私はまた眼鏡をかけて、一文字ずつ見る。それは誰かの文章を守る仕事で、私はその仕事を誇りに思っている。
けれど、ずっとはっきりしていられる人なんていない。
輪郭は、ときどきぼかしていい。自分の輪郭も、ほかの人の輪郭も。ほんの少しはみ出したり、にじんだりしたまま、それでも隣にいられる夜があっていい。
グラスを持ち上げて、照明にかざしてみる。霞の向こうに、白い光がやわらかく浮かんでいる。
きれいだ、と思った。何がきれいなのか、はっきりとは言えない。言えないままでいいことが、今夜はたくさんある。
最後のひと口を飲んで、目を閉じる。
閉じても、開けても、世界はやさしくぼやけている。
了