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Fruit Sour 4.5%閉じる約4分

一人だけの、小さな乾杯Quiet Toast

“To no one. To myself.”

今日、ひとつ仕事が終わった。

誰も知らない。正確に言えば、知っている人はいる。けれど、それが「終わった」ということの意味を知っている人は、たぶん私しかいない。

半年かけた資料だった。社内の古い手順書を、全部読み直して、矛盾しているところを洗い出して、一冊にまとめ直す。頼まれた仕事ではなかった。誰かが困っているのを見て、勝手に始めた。途中で何度もやめようと思った。誰にも頼まれていないのだから、やめても誰も困らない。それがいちばん、やめにくい理由だった。

夕方、共有フォルダに最後のファイルを置いた。部長に「置きました」とだけ送った。返事は「ありがとう、あとで見ます」だった。

それで、終わり。

拍手は無い。花束も無い。打ち上げも無い。そういうものが欲しかったわけではない。欲しかったわけではないけれど、何も無いまま、このまま眠ってしまうのは、少しもったいない気がした。

だから帰り道、一本だけ選んだ。

ベランダに出る。十月の夜は思ったより冷えていて、カーディガンを取りに一度部屋へ戻った。戻ってきて、手すりにもたれる。向かいのマンションの窓が、いくつか灯っている。カーテン越しのオレンジ色。テレビの青い光。誰もいない台所の白い光。

グラスに注ぐと、淡い赤が揺れた。

木苺のような色。光にかざすと、少しだけ透ける。鼻を近づけると、甘い匂いのあとから、きゅっと酸っぱい匂いが追いかけてくる。

さて、と思う。

乾杯、というのは、本来誰かとするものだ。グラスとグラスを合わせて、音を鳴らす。相手がいなければ、音は鳴らない。

私はグラスを、夜の空に向かって少し持ち上げた。

誰に、と考える。部長に、ではない。あの資料で助かるかもしれない、まだ顔も知らない新人に、でもない。半年前の自分に、というのも、少し違う気がする。

誰にでもなく。

強いて言えば、私に。

声には出さなかった。出したら、隣のベランダの人に聞こえてしまう。聞こえてもいいのだけれど、説明するのは面倒だ。「何に乾杯してるんですか」「いえ、資料が終わったので」。そんな会話をしたら、今夜のこれは、たちまち小さなものになってしまう。

小さなことだ。分かっている。でも、小さいことを小さいまま、大事にしておける場所が、人にはもう少しあっていい。

ひと口。

甘い。そのあと、酸っぱい。喉を通るころには、甘さも酸っぱさも、どちらか一方ではなくなっている。

半年間のことが、そんな味だった気がする。手順書の矛盾を一つ見つけるたびに、少しうれしくて、少しうんざりした。土曜日の朝にふと思いついて、パジャマのままノートパソコンを開いたこともある。うれしさとうんざりは、ずっと混ざっていた。混ざっていたから、続けられたのかもしれない。

向かいのマンションの窓が一つ、消えた。

あの部屋の人も、今日、何かを終えたのかもしれない。誰にも知られずに。あるいは何も終わらなかったのかもしれない。それでも明かりを消して、眠る。

グラスを、その消えた窓のほうへ、もう一度だけ持ち上げる。

あなたにも。

二杯目は、注がなかった。一本を、ゆっくり一杯で飲みきる。今夜はそれくらいがちょうどいい。祝いすぎると、明日、少しさみしくなるから。

部屋に戻る前に、空を見上げる。星は二つしか見えない。都会の空にしては、多いほうだ。

一つは誰か。もう一つは、たぶん私。

小さな乾杯の音は、どこにも鳴らなかった。それでも、確かに鳴った。

了

この夜に合わせるなら

音
ベランダで聴くなら、イヤホン片耳ぶんのボサノヴァ
つまむもの
白カビのチーズを少し。ナイフは要らない
この一本
Fruit Sour。木苺の淡い赤。甘さのあとを酸味が洗う

20歳未満の者の飲酒は法律で禁止されています。

EMOTION LIBRARY/株式会社TSURATSURA。この物語は企画段階の仮原稿です。