鍵を返した。
不動産屋のカウンターに、銀色の鍵を二本置く。担当の人が書類に何かを書き込んで、「はい、確かに」と言った。それだけだった。八年住んだ部屋の最後は、三十秒で済んだ。
外に出ると、夕方の六時だった。
ポケットに手を入れる。いつもの場所に、いつもの重さが無い。鍵というのは、思っていたより重かったのだと、無くなってから知る。
八年。
大学を出て、最初の会社に入った年に借りた部屋だった。六畳の和室に、小さな台所。窓からは、隣の家の屋根と、その向こうの電線と、細長い空が見えた。冬は寒く、夏は暑かった。二回、恋人が泊まりに来て、二回とも、その恋人とは別れた。一回、会社を辞めた。辞めたあとの三か月、ほとんど部屋から出なかった。
その部屋の鍵を、今、返した。
荷物はもう、新しい街へ送ってある。明日の朝の新幹線で、私も追いかける。今夜は駅前のビジネスホテルに泊まる。部屋はもう無い。この街に、私の場所はもう無い。
歩き出す。行き先は無い。ホテルのチェックインまで、まだ時間がある。
駅とは反対の方向へ、なんとなく足が向く。八年間、毎朝歩いた道だ。パン屋の前を通る。三年前に店主が代わって、メロンパンが小さくなった。クリーニング屋の前を通る。結局、一度も使わなかった。
公園に着いた。
ブランコと、滑り台と、ベンチが二つだけの、小さな公園。会社を辞めた三か月のあいだ、夕方になると、ここに来ていた。何をするでもなく、ベンチに座って、子どもたちが帰っていくのを眺めていた。
同じベンチに座る。
コンビニで買ってきた瓶を、鞄から出す。栓抜きは、鞄の底にずっと入れたままになっていた。引っ越しの荷造りで唯一、箱に入れ忘れたものだ。
ぷし、と鳴る。
白く濁った、明るい色。紙コップに注ぐと、泡がすぐに縁まで上がってきた。
空を見上げる。
広い、と思った。
部屋の窓から見ていた空は、細長かった。隣の屋根と電線に切り取られて、いつも同じ形をしていた。あれが私の空だった。八年間、私は空とはああいう形のものだと思っていた気がする。
公園の上には、何も無い。屋根も、電線も無い。夕焼けの名残りが、西の端のほうにだけ残っていて、あとは群青色が、ゆっくりと全体を塗りつぶしていく。
空は、何も訊かなかった。
なぜ引っ越すのか。新しい街で何をするのか。八年間で何を成し遂げたのか。この先どうするつもりなのか。この一か月、いろんな人に訊かれた。訊かれるたびに、それらしい答えを用意した。用意した答えは、どれも半分くらいしか本当ではなかった。
空はただ、広い。訊かない。答えなくていい。
ひと口飲む。柑橘の皮の匂いが、夜の空気に混ざって、すぐに消えた。
ブランコが、風で少しだけ揺れている。
ポケットの中で、指が鍵を探す。何度でも探す。無い。無いことに、少しずつ慣れていく。慣れていくのが、さみしいような、身軽なような。どちらでもあって、どちらとも決めなくていいのだと思う。
紙コップが空になる。瓶にはまだ半分残っている。
明日、新しい部屋の鍵をもらう。新しい鍵は、たぶん最初は軽く感じるだろう。八年かけて、また重くなっていくのかもしれない。ならなくてもいい。
もう一杯注いで、もう一度、空を見る。
群青は、もう黒に近い。西の端の光も消えた。それでも空は、さっきと同じくらい広かった。
鍵を返した夜の空は、何も訊かずに、ただそこにあった。
了