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Witbier 4.8%解く約4分

鍵を返した、空の広さLast Key Returned

“The sky never asked.”

鍵を返した。

不動産屋のカウンターに、銀色の鍵を二本置く。担当の人が書類に何かを書き込んで、「はい、確かに」と言った。それだけだった。八年住んだ部屋の最後は、三十秒で済んだ。

外に出ると、夕方の六時だった。

ポケットに手を入れる。いつもの場所に、いつもの重さが無い。鍵というのは、思っていたより重かったのだと、無くなってから知る。

八年。

大学を出て、最初の会社に入った年に借りた部屋だった。六畳の和室に、小さな台所。窓からは、隣の家の屋根と、その向こうの電線と、細長い空が見えた。冬は寒く、夏は暑かった。二回、恋人が泊まりに来て、二回とも、その恋人とは別れた。一回、会社を辞めた。辞めたあとの三か月、ほとんど部屋から出なかった。

その部屋の鍵を、今、返した。

荷物はもう、新しい街へ送ってある。明日の朝の新幹線で、私も追いかける。今夜は駅前のビジネスホテルに泊まる。部屋はもう無い。この街に、私の場所はもう無い。

歩き出す。行き先は無い。ホテルのチェックインまで、まだ時間がある。

駅とは反対の方向へ、なんとなく足が向く。八年間、毎朝歩いた道だ。パン屋の前を通る。三年前に店主が代わって、メロンパンが小さくなった。クリーニング屋の前を通る。結局、一度も使わなかった。

公園に着いた。

ブランコと、滑り台と、ベンチが二つだけの、小さな公園。会社を辞めた三か月のあいだ、夕方になると、ここに来ていた。何をするでもなく、ベンチに座って、子どもたちが帰っていくのを眺めていた。

同じベンチに座る。

コンビニで買ってきた瓶を、鞄から出す。栓抜きは、鞄の底にずっと入れたままになっていた。引っ越しの荷造りで唯一、箱に入れ忘れたものだ。

ぷし、と鳴る。

白く濁った、明るい色。紙コップに注ぐと、泡がすぐに縁まで上がってきた。

空を見上げる。

広い、と思った。

部屋の窓から見ていた空は、細長かった。隣の屋根と電線に切り取られて、いつも同じ形をしていた。あれが私の空だった。八年間、私は空とはああいう形のものだと思っていた気がする。

公園の上には、何も無い。屋根も、電線も無い。夕焼けの名残りが、西の端のほうにだけ残っていて、あとは群青色が、ゆっくりと全体を塗りつぶしていく。

空は、何も訊かなかった。

なぜ引っ越すのか。新しい街で何をするのか。八年間で何を成し遂げたのか。この先どうするつもりなのか。この一か月、いろんな人に訊かれた。訊かれるたびに、それらしい答えを用意した。用意した答えは、どれも半分くらいしか本当ではなかった。

空はただ、広い。訊かない。答えなくていい。

ひと口飲む。柑橘の皮の匂いが、夜の空気に混ざって、すぐに消えた。

ブランコが、風で少しだけ揺れている。

ポケットの中で、指が鍵を探す。何度でも探す。無い。無いことに、少しずつ慣れていく。慣れていくのが、さみしいような、身軽なような。どちらでもあって、どちらとも決めなくていいのだと思う。

紙コップが空になる。瓶にはまだ半分残っている。

明日、新しい部屋の鍵をもらう。新しい鍵は、たぶん最初は軽く感じるだろう。八年かけて、また重くなっていくのかもしれない。ならなくてもいい。

もう一杯注いで、もう一度、空を見る。

群青は、もう黒に近い。西の端の光も消えた。それでも空は、さっきと同じくらい広かった。

鍵を返した夜の空は、何も訊かずに、ただそこにあった。

了

この夜に合わせるなら

音
音楽は無し。公園の音のまま
つまむもの
駅前で買った塩むすび
この一本
Witbier。小麦と柑橘の皮。白く濁った明るい一杯

20歳未満の者の飲酒は法律で禁止されています。

EMOTION LIBRARY/株式会社TSURATSURA。この物語は企画段階の仮原稿です。